鶴見俊輔『身ぶりとしての抵抗』(河出文庫、原著1960-2006年)を読む。
すぐれた思想家の文章に触れると、ときどき、何かに打たれたように吃驚し息を呑んでしまうことがある。
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「大勢はきまったと判断され、その判断が現状にあたっていると思われる時に、その後は大勢に身をまかせるのでなく、いくつかの原則をたてて異議申したてをつづけることには意味がある。明治以後の日本の伝統に欠けているのは、この習慣である。」
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(言語にならない身ぶり手ぶりによりあらわれる世界をあらためて重視して)
「長い戦後、自民党政権に負ぶさってきたことに触れずに、菅、仙谷の揚げ足取りに熱中した評論家と新聞記者による日本の近過去忘却。これと対置して私があげたいのは、ハナ肇を指導者とするクレージー・キャッツだ。急死した谷啓をふくめて、米国ゆずりのジャズの受け答えに、日本語もともとの擬音語を盛りこんだ。
特に植木等の「スーダラ節」は筋が通っている。アメリカ黒人のジャズの調子ではなく、日本の伝統の復活である。「あれ・それ」の日常語。身ぶりの取り入れ。」
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「私人の考え方は、それが官僚政治のレベルで、どのような手続きで実現されるかをとびこえて、何がいいか、何が悪いかという太い線でとらえる。だから、逆にいえば、官僚の側は、私人の集団としての大衆にたいしては、法律上の手続き論とか現実的利害の計算をとびこして自分たちの決定した政策を、正義としてつねにうったえる方法をとる。ほんとうはよくはないが、手続きにしばられてこうきめた、というようなことはあまりいわない。」
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「知識としてはひろくこまかく正しくて、思想としてはもろい存在というものがある。」
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「知識と感覚・行動が絶縁している場合、人は、大局的に見て権力者のいうなりにあやつられる。」
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「・・・いまの日本のように権力をもっている人びとが、平和憲法を守ることにあまり期待がもてない時には、法律の細目にふれる行動を通してでも、法を守ってくれとはっきり要求することが必要になる。そのための実施の練習をすることに意味がある。」
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「私は戦後を、ニセの民主主義の時代だと思うが、しかし、だからといって、それを全体として捨てるべきだとは思わない。ニセものは死ねと、ほんものとしての立場から批判する思想を、私は、政治思想としては、信じることができない。それは精神の怠惰の一種、辛抱の不足の一種だと思う。」