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新城郁夫・鹿野政直『対談 沖縄を生きるということ』

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新城郁夫・鹿野政直『対談 沖縄を生きるということ』(岩波現代全書、2017年)を読む。

タイトルからは、沖縄に住む、あるいは深く関わるといった「当事者性」が強調されているように感じられる。実際にこのふたりによって話されることは、その「当事者性」をいかに問い直すかという点だ。沖縄人でなければ沖縄の政治に関わってはならないのか、あるいは、沖縄人でない場合に沖縄の政治に関わるための資格はあるのか。

この視点からは、沖縄以外の日本を「内地」、「本土」、「ヤマト」のいずれで呼ぶのかという議論も出てきている。たとえば「本土」には、「本土」こそが日本の中心であるという驕りが感じられる。支配の歴史を意識する呼称として「ヤマト」を使う人も多いだろう(わたしもそうである)。しかし、鹿野氏は、「みずからをヤマトと称することの欺瞞性」と指摘する。それは、新城氏によれば、「本土」という言葉の選び直しによる「抑圧」の再自覚化である。それもまた欺瞞かもしれないのだが、言葉の持つ意味や権力関係をわがこととして慎重に考えることは、倫理的な行動に他ならないだろう。

ここで新城氏により「ビカミングアウト」という概念が紹介される。「カミングアウト」をもう一歩進め、何かに「なり続けていく」。絶えず「沖縄になる」、「沖縄人になる」、あるいは「マイノリティになる」。排除と閉鎖の性質を持ってしまう悪しき当事者性が、丸山眞男のいう「であること」に近いものだとすれば、「ビカミングアウト」は悪しき当事者性を乗り越え、開かれた関係を創り出すものとして、とても大事な捉え方なのではないか。

基地の「県外移設論・引き取り論」も、ここでは倫理をもって語られている。レイプなどの凶悪犯罪を構造的に引き起こす基地なるものを、日米安保が重要なら持っていってくださいという考え方は、やはり倫理に背いているだろうという考えに基づくものである。いやしかし、このままでは現実的に解決しないではないか、では平等に負担すべきだという論理が「県外移設論・基地引き取り論」だとして、それにも倫理はあるわけだ。このあたりの議論が、2016年に「沖縄タイムス」紙上で展開されていたのだが、それは次の何かをみることなく終わってしまったのだろうか。

もっとも、議論は倫理ばかりに基づいているわけではない。両氏は、沖縄の施政権返還が米軍の軍事戦略のなかでなされたのだとする。それが現在まで地続きである以上、移設などといったところで米軍がそのように動くわけがないという指摘も的を射ている。

●参照
鹿野政直『沖縄の戦後思想を考える』
新城郁夫『沖縄を聞く』
高橋哲哉『沖縄の米軍基地 「県外移設」を考える』

●本書で紹介された本
屋嘉比収『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』
伊波普猷『古琉球』
岡本恵徳批評集『「沖縄」に生きる思想』
大江健三郎『沖縄ノート』
新崎盛暉『沖縄現代史』


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