慎改康之『ミシェル・フーコー ― 自己から抜け出すための哲学』(岩波新書、2019年)を読む。
『知の考古学』(1969年)は一種のポジティヴィスムの企てであったという。なるほど、アーカイヴというものがどのような構造下にあり歴史の要素間がどのような関係にあるか、ということでは決してなく、どのような語りのもとにアーカイヴが形作られていったか、ということだ。すなわちそれは「正史」に疑いの目を向ける「考古学」であり、人間従属への抗いの成果であった。言説は常にすべてが傍流であるはずのものだ。
フーコーは、アーカイヴや知の体系が、人間の魂のあり方までをからめとろうとした系譜学を、『監獄の誕生』(1975年)において示してみせる。そして最後の仕事であるセクシュアリティの研究において、人間の自己認識のありようを古代にまで遡り探求しようとした。
現代のスマホという記録デバイスとネットワークのシステムが、常に同時多発的なアーカイヴ化を実現させているのだとして、そして言説どころかナマのモニタリング結果のすべてが傍流に過ぎないことが誰の目にも可視化されているのだとして、ではフーコーはこれについて人間従属を見出したか、あるいはそれへの抗いを見出したか。
●ミシェル・フーコー
ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅱ 快楽の活用』(1984年)
ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ 知への意志』(1979年)
ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(1975年)
ミシェル・フーコー『ピエール・リヴィエール』(1973年)
ミシェル・フーコー『言説の領界』(1971年)
ミシェル・フーコー『マネの絵画』(1971年講演)
ミシェル・フーコー『わたしは花火師です』(1970年代)
ミシェル・フーコー『知の考古学』(1969年)
ミシェル・フーコー『狂気の歴史』(1961年)
ミシェル・フーコー『コレクション4 権力・監禁』
重田園江『ミシェル・フーコー』
桜井哲夫『フーコー 知と権力』
ジル・ドゥルーズ『フーコー』
ルネ・アリオ『私、ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』
二コラ・フィリベール『かつて、ノルマンディーで』
ハミッド・ダバシ『ポスト・オリエンタリズム』
フランソワ・キュセ『How the World Swung to the Right』